アンティークコイン フランス 第二共和政 1851-A年 20フラン金貨 PCGS-MS66+
発行年:1851年
発行国:フランス(パリ造幣)、ミントマークA
鑑定機関:PCGS(Professional Coin Grading Service)社
グレード:MS66+(トップ2グレード)
重量:6.4516グラム
直径:21.0ミリ
品位:90.0%金
表面:星の下に右向きの共和国の頭像(ケレス)
REPUBLIQUE FRANCAISE MERLEY. F.
裏面:LIBERTE EGALITE FRATERNITE
オリーブの枝と樫の枝で形成された冠、ミントマークのA
■ Gold Coins of the Worldによる評価額
EF:350ドル
UNC:600ドル
※評価額は長年更新されておらず、現在は上昇している可能性が高いです。
■基準価格不明
MONNAIES ROYALES FRANCAISES VIVTOR GADOURYでは
TB:400ユーロ
TTB:450ユーロ
SUP:1,300ユーロ
■ フランス第二共和政
フランス第二共和政は、1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位(第二帝政の成立)までの期間のフランスの政体を指す。
第二共和政の発足当初はブルジョワと社会主義者の協調が図られたが、実際の政策運営にあたって対立が先鋭化し、六月蜂起へと至った。
これにより保守化したブルジョワ・農民は社会的安定を求めて強力な指導者を求め、一方で新政府に失望した労働者も強力な指導者による保護を求めた。
こうした中、ナポレオン1世の威光を帯びたルイ=ナポレオン・ボナパルトが各層の広範な支持を得て権力を掌握し、1852年に皇帝に即位したことで第二共和政は崩壊した。
■ フランス第二共和政の興亡と近代フランス政治への遺産
フランス第二共和政は、1848年2月25日から1852年12月2日までのわずか4年足らずの期間に存在したフランスの共和政体です 。
この政体は、1848年2月の二月革命によって七月王政が打倒された結果として成立しました 。
この時期は、ヨーロッパ全体で自由主義やナショナリズムが高揚した「1848年革命」の一環として「諸国民の春」と称される時代であり、ウィーン体制の崩壊と、ブルジョワジーと労働者の新たな階級対立が顕在化するという、歴史的な転換点に位置づけられます 。
二月革命後、臨時政府が樹立され、穏健なブルジョワ共和派を主体としつつも、社会主義者のルイ・ブランら多様な勢力が参加しました 。
この政府は画期的な改革を打ち出し、21歳以上の成人男子に参政権を認める男子普通選挙を導入し、有権者数を革命前の25万人から900万人へと大幅に増加させました 。
また、フランス領植民地における奴隷制度の完全廃止も宣言されました 。
社会主義者のルイ・ブランの主張により、労働者や失業者の救済機関として「国立作業場」が開設され、労働請負制の廃止や10時間労働制の実現を目指す「リュクサンブール委員会」が設置されました 。
しかし、国立作業場は財政を圧迫するとの懸念から、ブルジョワ共和派との軋轢を生み始めました 。
1848年4月23日に行われた憲法制定議会選挙では、地方の農民票が社会主義勢力にほとんど入らなかったため、ブルジョワ共和派が圧勝し、社会主義派は後退しました 。
選挙結果を受け、ブルジョワ共和派が主導する「執行委員会」が結成され、労働者との対決姿勢を鮮明にしました 。
執行委員会は財政的負担を理由に国立作業場の閉鎖に踏み切り 、これに反発した労働者たちが1848年6月23日からパリを中心に大規模な武装蜂起「六月蜂起」を起こしました 。
議会は陸軍大臣のカヴェニャック将軍に反乱鎮圧の全権を委任し、パリに戒厳令を布告 。カヴェニャックは4日間にわたる市街戦の末、蜂起を過酷に鎮圧しました 。
この流血の鎮圧により、社会主義者のルイ・ブランは亡命し、政府内での社会主義の政治的影響力は事実上消滅しました 。
六月蜂起は、ブルジョワジーと労働者の階級闘争が本格的に表面化した最初の出来事とされ 、共和政は広範な国民の支持基盤を失い、社会の分断を深めました 。
この混乱と保守化が進む中で、1848年11月4日に「第二共和政憲法」が公布されました 。
この憲法は、人民主権、三権分立、そして大統領制をその主要な特徴としていました 。
立法権は男子普通選挙によって成立する一院制の議会(国民議会)に、行政権は国民によって直接選ばれる大統領に付与され、大統領は条約締結、軍の統轄、閣僚の任免など強大な執行権を有していました 。
しかし、大統領の任期は4年とされ、再任は禁止されていました 。この再任禁止規定は、後のルイ・ナポレオンによるクーデターの直接的な契機となる、制度上の脆弱性として機能することになります 。
六月蜂起の徹底的な鎮圧後、1848年12月10日に行われた大統領選挙で、ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオン・ボナパルトが、投票総数の4分の3にあたる547万票を獲得し、圧倒的な支持を得て大統領に当選しました 。
彼の当選の背景には、六月蜂起後の社会的な混乱、そして農産物価格の下落による激しい農業危機に直面していた地方の小農民層が、秩序と強力なリーダーシップを「ナポレオン」という名前に求めたことが挙げられます 。
大統領に就任したルイ・ナポレオンは、再任禁止規定という壁に直面し、権力基盤を強化するため議会との対立を深めました 。
この対立の中で、1850年5月には議会が普通選挙の廃止を決定し、特にパリでは有権者の62%が選挙権を剥奪されるなど、保守的傾向がさらに強まりました 。
大統領再選を禁止する憲法条文の修正提案が議会で否決されたことを直接の契機として、ルイ・ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを決行しました 。
この日付は、ナポレオン1世のアウステルリッツの戦勝と戴冠式の記念日であり、ボナパルティストとしての象徴的な意味合いを強く持たせていました 。
彼は軍隊を動員して議会を包囲し、反対派の議員や要人を逮捕・追放して独裁権を掌握しました 。クーデター後、ルイ・ナポレオンは国民投票を実施し、圧倒的な支持(投票率83%、賛成92%)を得て大統領任期を10年に延長する新憲法を制定しました 。
そして、そのちょうど1年後の1852年12月2日、再び国民投票を経て「ナポレオン3世」として皇帝に即位し、第二帝政を開始しました 。これにより、第二共和政は完全に崩壊しました 。
フランス第二共和政は、わずか4年という短命に終わったものの、フランスの共和主義の歴史において重要な足跡を残しました。
人民主権、三権分立、大統領制、男子普通選挙、奴隷制度廃止といった近代的な共和主義の原則を憲法に明記し、一時的ではあれ実践しました 。
特に「すべての人は生まれながらにして自由で平等である」という人権思想の宣言は、フランス国内にとどまらず、世界中に普遍的な影響を与えました 。
六月蜂起の徹底的な鎮圧は、フランスの社会主義運動に一時的に大きな挫折をもたらし、その政治的影響力は一時的に排除されました 。
しかし、この蜂起は、ブルジョワジーと労働者階級の階級闘争が本格的に表面化した最初の出来事として歴史に記憶され 、その後の労働運動や社会主義政党形成の歴史に大きな影響を与えました 。
第二共和政の混乱とルイ・ナポレオンによる帝政への移行は、後のフランス共和政にとって極めて重要な教訓となりました 。
特に第三共和政(1870-1940年)は、第二共和政での強力な大統領制が独裁を招いたという反省から、議会主権を重視し、大統領の権限を抑制する傾向を強く持ちました 。
第二共和政は、その短命と劇的な終焉にもかかわらず、フランスが共和政国家としてのアイデンティティを確立する上で不可欠な「実験場」としての役割を果たしました。
その挫折は、後の共和政がより現実的かつ安定的な制度を構築するための貴重な教訓となり、フランスの政治文化に深く刻まれたのです 。
発行年:1851年
発行国:フランス(パリ造幣)、ミントマークA
鑑定機関:PCGS(Professional Coin Grading Service)社
グレード:MS66+(トップ2グレード)
重量:6.4516グラム
直径:21.0ミリ
品位:90.0%金
人気のフラン金貨です。
状態もよく、高グレードであるためおすすめの一枚です。
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