イタリア 1825年 カルロ・フェリーチェ 80リラ金貨 PCGS-MS61

ゴールドコイン

イタリア 1825年 カルロ・フェリーチェ 80リラ金貨 PCGS-MS61

 

 

 

 

 

1825年発行

発行枚数:13,728枚

 

 

 

重量:25.75グラム

品位:90%金

 

 

 

PCGS社鑑定枚数51枚、MS61は8枚でトップ2グレードです。


サルデーニャ王

カルロ・フェリーチェ・ディ・サヴォイア(1821-1831)の肖像


中央にサヴォイ家の紋章が刻まれたスペード型の盾の紋章、上に王冠


カルロ・フェリーチェ・ディ・サヴォイア(1821-1831)

 

 

 

カルロ・エマヌエーレ4世やヴィットーリオ・エマヌエーレ1世といった兄がおり、王位を継ぐ見込みはないと思われていた。

 

 

 

しかし、カルロ・エマヌエーレには子供が出来ず、ヴィットーリオ・エマヌエーレの子供は娘ばかりだった。

 

 

 

1821年、自由主義将校団を中心とした立憲革命の嵐の中でヴィットーリオ・エマヌエーレが退位すると、サリカ法の規定によって、

すでに50歳を過ぎていたカルロ・フェリーチェが王位を受け継ぐこととなった。

 

 

 

しかしこの時、カルロ・フェリーチェ本人はモデナにおり、遠縁の一族であるカリニャーノ公カルロ・アルベルトを摂政に任命した。

 

 

 

カルロ・アルベルトは将校団と接触し、憲法制定を望む彼らの要求を受け入れた。


しかし、自らの不在中に進められたこうした動きに対してカルロ・フェリーチェは否定的であり、トリノに到着した彼は一切の妥協を否定、

秩序回復のためとしてオーストリア軍を導き入れた。

 

 

 

さらに同じ年、カルロ・フェリーチェは、スペインの自由主義者の反乱の鎮圧に力を貸すためにスペインに赴いたが、こうしたことは国内の自由主義者の憎悪を集めることになった。

 

 

 

ただ、この行動によってスペイン王の信頼を回復する。

 

 

 

カルロ・フェリーチェは実際反動政策を展開した。

彼の見方によれば、フランス革命によって投げ入れられナポレオンによって拡散された、邪悪で冒涜的な「革新」を拭い去ることが当然であった。

 

 

 

1831年に死去した。カルロ・フェリーチェも男子を得なかったため、傍系のカリニャーノ公カルロ・アルベルトが王位を継承した。


基準価格(World Coins 1801-1900)

 

VF    2,000ドル

XF    2,800ドル

UNC   5,000ドル


1825年発行

発行枚数:13,728枚

 

 

 

重量:25.75グラム

品位:90%金

 

 

 

PCGS社鑑定枚数51枚、MS61は8枚でトップ2グレードです。

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